10  生死の執着と安心 〜一遍と子規と〜  松山子規会五月例会(20180519)
1、はじめに
 

 今回の講話のテーマは「生死の執着と安心 〜一遍と子規と〜 」であるが、仏教的な用語では、生死は「しょうじ」、執着は「しゅうじゃく」、安心は「あんじん」である。

『岩波 仏教辞典』(中村元ほか編)によれが、
生死とは@誕生と死A生まれ変わり死に変わり(輪廻)、執着とは執著、
安心とは安心立命、安心決定で、信仰や実践により到達する心のやすらぎを指す。安らぎに到る途には聖道門(自己への精神集中する自力本願)と浄土門(阿弥陀仏への帰依する他力本願)がある。
 
伊予に誕生し、「南無阿弥陀仏」を唱えて遊行し「捨聖」「遊行聖」「湯聖」とも称される時宗の始祖一遍と、同じく伊予松山に生まれ、近代文学誕生に一石を投じた正岡子規を採りあげ、二人にとっての「生死の執着と安心」とは何だったかを考察し、今まで論じられなかった二先人の一面を記述できればと願っている。
これからの論述に当たって二つの尺度を用いたい。

一つは古代インドで書かれた『マヌ法典』の人生を四区分(学生期・家住期・林住期・遊行期)して理想的な生き方を提示した「四住期」。
他の一つは「論語」(為政第二)にある「吾十有五而志乎 学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩」である。
併せて、一遍も子規も出自は支配層・エリートである「武士」であり、そのエートスは「常在戦場 常時死身 臨終安穏」であった。戦前の「教育勅語」に反映されており@「タテ社会(忠孝・長幼序列)」と「イエ(家督相続)」に象徴される。(笠谷和比古『士の思想』 岩波)
一遍の陸奥遊行は、祖父通信、伯父通政、叔父通末の墓参旅でもあった。子規二八歳の漢詩「正岡行」では「タダ期ス 青史ニ長ク 姓ノ正岡ヲ記サンコトヲ」と立志を吐露している。

U 一遍の生死への執着と安心

出自 

 伊予の豪族河野氏の一族である。承久の乱(1221年)で、一族は後鳥羽上皇方と鎌倉幕府方に別れて抗争した。上皇方は敗北し、通信以下伊予系河野家は所領を没収され、北条系河野家が総領家として以後伊予国の統治者となる。庶家の得能河野家と別府河野家は幕府方に加担したので所領が安堵された。別府河野家通広の次男として一遍智真(松寿丸)1239年誕生する。父・通広(如仏)は仏門にあり、母の死後を契機に、一遍は伊予・得智山継教寺(師は縁教上人)に入る。母は、北条方の武将大江季光の娘で,季光は毛利家の祖に当る。

 河野別府家は仏門に入る者が多い。父・通広は京都で浄土宗の証空に学び「如仏」と号する。その子である一遍の他に、仙阿(伊豆坊)が宝厳寺の祖、聖戒が歓喜光寺の祖で『一遍聖絵』の編者でもある。
「まことに一子出家すれば七世の恩所、得脱することはりなれば、亡魂さだめて慨土望郷のむかしの夢をあらためて、華池宝閣の常楽にうつり給ぬらむと、ことにたのもしくこそおぼえ侍れ。」(『聖絵』第五・第三段)」

学生期 

 一遍は、河野家一族としても際立ってエリート教育を受け、豊かな学生期を送った。伊予・得智山継教寺で縁教律師に学び「随縁」と名乗る。次いで、法然上人直弟子の証空(浄土宗西山派祖)門下の聖達上人(筑紫・大宰府原山寺)と華台上人(肥前・清水庵室)の元で十三年修行する。華台の命により智真と改号する。

「一遍ひじりは、族姓は越智氏、河野四郎通信が孫、同七郎通広(出家して如仏と号す)が子なり。延応元年(1239)亥己予州に誕生。十歳にして悲母にをくれて、始て無常の理をさとり給ぬ。つゐに父の命をうけ、出家をとげて、法名は隋縁と申けるが、建長三年(1251)の春十三歳にて、僧善入とあひ具して鎮西に移行し、大宰府の聖達(しょうだつ)上人の禅室にのぞみ給う。上人学問のためならば、浄土の章疏文字よみをしてきたるべきよし、示し給によりて、ひとり出て肥前国清水の華台上人の御もとにまうで給き。
 
上人あひ見て、「いづれの処の人、なにのゆへにきたれるぞ」と問給に、事のおもむきくはしくこたへ申されければ、□処の上人、「さては昔の同朋の弟子にこそ、往事おまだわすれず、旧好いとむつまじ、さらばこの処に居住あるべし」とて、名字を問給に、隋縁と申よし答申給に、「隋縁雑善恐難生(隋縁の雑善は恐らく生じ難し)」といふ文あり、しかるべからず」とて、智真とあらため給き。
 さて彼の門下につかへて、一両年研精修学し給ふ。天性聡明にして、幼敏ともがらにすぎたり。上人器骨をかゞみ、意気を察して、「法機のものに侍り、はやく浄教の秘蹟をさづけられるべし」とて、十六歳の春、又聖達上人の御もとに、をくりつかはされ給けり。」(『聖絵』第一・第一段)

家住期 

 弘長三年(1263)父(通広)の死により伊予に帰国、還俗して通尚を名乗り、土地を相続し妻子を持つが、兄(道真)の死もあり、一族の間に相克が起きる。一遍は疵を受けなが敵の太刀を奪い取り一命が助かったという刃傷沙汰に発展した。(『遊行上人縁起絵』)
その後一念、発心(安心)し、再出家を選択する。
「夫真俗二諦は相依の法、邪正一如は実業のことはりなれども、『在家にして精進ならんよりは、山林にしてねぶらむにはしかじ』と仏もをしへ給へり。又『聖としか(鹿)とは、里にひさしくありては難にあふ』といへる」(『聖絵』第一・第二段)

発心

 発心の契機は、『聖絵』では輪鼓(りゅうご)の悟りであるとされる。輪鼓(独楽)は「動くものか」「不動のものか」の哲学的思索である。論者も経験しているが、学童の時代に、悪餓鬼たちと独楽で遊んだ。独楽を紐で巻いて力強くしゃくると独楽は唸りを発して回り始める。暫くすると唸りは消え、独楽の軸は垂直に立って左右に揺れることも静止しているかのように見える。そのうち回転が弱くなって倒れてしまう。「動中静」というか、動と静が均衡した時に、「動即静(止)」を感覚的に体感した。
一遍は、輪廻転生なる生死の執着を「自業もしとゞまらば、何をもてか流転せむ。」と悟ったのである。
「そのゝち(父通広帰寂)、或は真門をひらきて勤行をいたし、或は俗塵にまじはりて恩愛をかへりみ、童子にたはぶれて、輪鼓をまはすあそびなどもし給き。
ある時、此輪鼓地におちてまはりやみぬ。これを思惟するに、「まはせばまはる、まはさゞればまはず、われらが輪廻も又かくのごとし。三業の造作によりて六道の輪廻たゆる事なし。自業もしとゞまらば、何をもてか流転せむ。こゝにはじめて、心にあたて生死のことはりを思ほしり、仏法のむねをえたりき」とかたり給き。
「世をわたりそめて高ねのそらの雲 たゆるはもとのこゝろなりけり」(『聖絵』第一・第二段)

林住期 

 文永八年(1271)春、善光寺に参詣、二河白道図を写して帰国し、伊予窪寺に閑室を設けて二河白道図を掛けて修行「己心領解の法門」を悟る。即ち「十劫正覚衆生界 一念往生弥陀国 十一不二証無生 国界平等座大会」である。
文永一〇年、浮穴郡菅生の岩屋寺で参禅、俗塵を捨て、天王寺、高野山に登り、熊野に詣でる。
本宮証誠殿でご神託を得て、遊行・賦算の決意が固まる。

「融通念仏すゝむる聖、いかに念仏をばあしくすゝめらるゝぞ。御房のすゝめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定するところ也。信不信をえらばず、浄不浄をきたはず、その札をくばるべし」としめし給ふ。
 一遍の重大な意思決定は「神託」と結びつくことが多い。(神託については後述)この結果、熊野の地で連れて来た妻子(超一、超二)を「今はおもふやうありて同行等をもはなちすてつ。」と伊予に残っている聖戒に文を送っている。(『聖絵』第三・一〇段) 


 文永一一年(1274)から正応二年(1289)の十六年余の遊行、賦算、踊念仏の詳細は紙面の都合で割愛せざるを得ない。詳しくは『一遍聖絵』をご覧頂きたい。
 『時衆過去帳』によれば、「捨て聖」として十六年間の念仏賦算は二五万一七二四人に及ぶ。弘安年間(1278−1287)の人口は4,994,828(男)1,994,828人(女)2,994,830であるから、全人口の五%に当たる(『類聚名物考』に拠る)。
一遍の遊行を特徴づけるものは、@遊行(非定住)A念仏(「南無阿弥陀仏」)B踊り念仏(念仏踊り)であるが、念仏踊りが全国に伝播して今日の盆踊りに定着したという。

神託・夢託

 一遍は百数十句の和歌(法歌)を詠んでいるが、著名な歌の多くが神託歌、夢託歌である。仏の御心を歌に託す想いであろうか。
先述の熊野権現の神託が著名であるが、その他にも一遍の宗教観を規定づけた重要な歌を紹介しておきたい。

001「世をわたりそめて高ねのそらの雲 
たゆるはもとのこゝろなりけり」
*弘長三年(1263) 伊予・別府河野宅 (夢託歌)

003「とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば 
なもあみだぶにむまれこそすれ」
(常に南無阿弥陀仏と唱ふれば
南無阿弥陀仏に生まれこそすれ)
*建治二年(1276) 大隅正八幡宮 (神託歌)

015「身をすつるすつる心をすてつれば 
おもひなき世のすみぞめの袖」
*弘安三年(1280) 奥州江刺祖父通信墳墓

036「極楽にまいらむとおもふこゝろにて 
南無阿弥陀仏といふぞ三心」
*弘安九年(1286)冬 石清水八幡宮 (神託歌)

050「旅衣木の根かやの根いづくにか 
身の捨てられぬ処あるべき」
* 天応二年(128)七月  淡路島
(注)宝厳寺本堂左脇に一遍歌碑が建立されている。本堂焼失前は050「旅衣木の根かやの根〜」、現在は015「身をすつるすつる心を〜}である。

往生 

 『一遍聖絵』第十二は、一遍の臨終のすべてが記されている。正応二年(1289)八月二三日辰の始(午前七時頃)、兵庫の光明福寺内の観音堂(現 時宗真光寺)が一遍の終焉の地である。
一〇日 所持の経文、譲渡または焼却
一二日 時衆順番に看病。相阿・弥阿・一阿・聖戒は脇座。他阿は病臥。
一七日 無理に往生すべきか否か迷うが、聖戒の勧めで「定命」に任せる。
一八日 眼中の赤い筋が消えたら臨終と告知。
二〇日〜二二日 水垢離
二一日 西宮の祭礼。西宮神主「十念」、播磨・淡河殿夫人「念仏札」251,724人目
二三日 晨朝礼賛の懺悔の「帰三宝」が唱えられてる中、禅定に入るが如く往生。勢至菩薩(阿弥陀三尊)の縁日に当たる。尚、生誕日は仏陀の涅槃日(二月一五日)である。
一遍は臨終に当たっての和歌(辞世)二句を残した。

「阿弥陀とはまよひさとりのみちたえて 
たゞ名にかよふいき仏なり」

「南無阿弥陀仏ほとけのみなのいづるいき 
いらばはちすのみとぞなるべき」
(注)漢字置き換え句
(阿弥陀とは迷ひ悟りの道絶えて 
ただ名(無量寿仏)の通ふ生き仏なり)

(南無阿弥陀佛の御名の出づる息 
入らば蓮の実とぞなるべき)

V 子規の生死への執着と安心

出自 

 正岡家の遠祖は風早郡(現・松山市)八反地に住む豪族で河野氏家臣である。越智郡竜岡幸門城主、河野三十二将の一という。江戸時代には松山藩の郡手代として勤め、士分に取り上げられる。
子規の曽祖父に当たる五代常一は、一代御坊主として宗家千宗室から免許皆伝を許され、松山藩茶道役のトップに出世した。六代恒武は茶道を継がず神伝流師範伊東祐根に入門、水練上達により御徒歩に取り立てられ藩士となり江戸在番(後年大小姓格)となる。佐伯家から養子に入った七代恒尚は馬術師範十河氏に馬術を習っていたと云う。
慶応三年(1867)、恒尚(隼太)の長男として子規は誕生する。母は儒学者大原観山の長女八重で後妻である。正に文武両道に優れた武士の家系と云えよう。
(注)二神将「松山神伝流と正岡家」(『子規博だより』110号)

子規の一生を俯瞰するに最良のテキストは、明治三一年七月に碧梧桐の兄河東可全に宛てた手紙に添えて送った自分の墓碑銘であろう。
  「正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名は升
  又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺齋書屋主人
  又ノ名ハ竹の里人伊予松山ニ生レ東
  京根岸ニ住ス父隼太松山藩御
  馬廻り加番タリ卒ス母大原氏ニ養
  ハル日本新聞社員タリ明治三十□年
  □月□日没ス享年三十□月給四十円」
(注)「処之助」は子規の幼名である。後年「越智処之助」というペンネームで「日本人」誌上に文芸評論を発表するが、正岡氏が河野氏と同じ伊予の名門「越智氏」の流れであることに誇りを持っていたのであろう。
この墓碑銘は子規の三十三回忌(昭和九年)に子規の手筆のままに銅板に刻まれ、墓のそばに建立された。その後再建され石に刻まれている。

学生期

 松山藩士族としてエリートコースを進学・遊学する。勝山学校(明治八年〜)―松山中学(明治十三年)―須田学舎(明治十六年)―東京大学予備門(明治十七年)―東京帝国大学文科大学(明治二三年)。在学中に、当時不治の病とされる結核に罹り、人生計画(哲学者、外交官等)が大きく狂う。明治二五年帝国大学退学。生涯の友・夏目金之助(漱石)を知る。   

家住期

 明治二五年十一月、正岡家東京移転(母八重、妹律)。十二月 新聞「日本」社員。限られた人生の中で俳句革新に乗り出し、「安心」の境地に達し、和歌、近代詩、ジャーナリスト等、多彩な分野に挑戦する。

林住期 遊行期

 明治二八年以降は病臥の体となり根岸「子規庵での生活が中心となる。林住期・遊行期に該当する時期はないが、病臥期の精神生活では、林住期・遊行期の精神的遍歴を経験していると云えるかもしれない。

生・死・再生

 論者は子規の三五才の人生は余りにも短かすぎたが、彼は二度生きたと思う。彼の一度目の「死」は、明治二八年(1895)五月従軍記者として大陸に渡り、帰国途上船中で大喀血し同月二三日県立神戸病院に入院、七月二三日須磨保養院に八月二〇に退院。
二五日、松山に帰郷し「愚陀仏庵」での漱石との同居、松風会の交流を契機として、二八年末『俳諧大要』発表、三〇年俳誌『ホトトギス』創刊を経て子規は「再生」する。この間の事情は文学史的専門論文も多数あるので割愛する。ここでは子規の生死に関する哲学的遍歴の軌跡を少しく辿ることにしたい。
(注)今村威「愚陀仏庵から写生創生へ」(『子規会誌』一四八号)
 
哲学的苦悩

○ 「生が帰か死が帰か夢の世の中の 夢見て悩む我身なりけり」(明治一七年九月 竹村鍛宛  大学予備門)
○「悟りといふことハ仏教の専有物でハないが・・・悟りは一つであるが、その方法は二つある。自力と他力、聖通門と浄土門、その極端にあるものとして禅宗と真宗

○座禅観法と念仏
阿弥陀さまと一処になって始めて絶対の境地に達して悟りが開ける」
「悟りとハ悟らぬさきの悟りなり 悟りてみれハ何もかもなし」 一休禅師(明治二三年四月 常盤会寄宿舎茶話会)
「生が帰か死が帰か夢の世の中の 夢見て悩む我身なりけり」

大喀血(而立)

○「身の上や御籤を引けば秋の風」 (明治二八年九月 石手寺「二十四番凶 病事は長引ん命にはさはりなし」)
○「行く秋や我に神なし仏なし」(明治二八年年一〇月 小栗神社)
○「平和なる天下に生れ(略)能く平地波乱的の大事業を成就するあらば、其人が徹頭徹尾時勢を造出し技量を驚かざるを得ず。(略)余法華宗の開祖日蓮に於て之れを見る。(略)野心は須らく大なるべきなり。」
(明治二八年八〜一〇月『養痾日記』(「日蓮」須磨で病気静養中、『日蓮記』を読み日蓮に傾倒する。(自力信仰)

禅的悟り

○「余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。(「病床六尺」明治三五年六月二日)
○「をかしければ笑ふ。悲しければ泣く。併し痛の烈しい時は仕様がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、又は黙ってこらへて居るかする。其中で黙ってこらへて居るのが一番苦しい。盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛が減ずる。(「墨汁一滴」明治三四年四月一九日)
○ 「今迄悟りと思ふて居たことが、悟りではなかったといふことを知ったゞけが寧ろ悟りに近づいた方かも知れん。さう思ふて見ると悟りと気取りと感違へして居る人が世の中にも沢山ある。」(「病牀苦語」明治三五年口述)

「ありのまま」が子規の到達した一つの悟りではないか。

往生
明治三九年(1902)九月一九日子規庵で没するまでで数日間を、死の床で書かれた『病牀六尺』(明治三五年)から抜粋し、子規の「安心」に迫りたい。
(注)最後の『病牀六尺』の日付は九月一七日であるが、原稿を日本新聞社に送るのに二日間要するので実際は九月一五日であった。九月に入ってからは、虚子らが口述筆記をしたと考えられる。

一一日『病牀六尺』第一二二(足腫る)
一二日『病牀六尺』第一二三「支那や朝鮮では今でも拷問をするさうだが、自分はきのふ以来昼夜の別なく、五体すきなしといふ拷問を受けた。誠に話にならぬ苦しさである。」
一三日『病牀六尺』第一二四「人間の苦痛は余程極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度に迄想像した様な苦痛が自分の此身の上に来るとは一寸想像せられぬ事である。」
一四日『病牀六尺』第一二五「足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大磐石の如し。僅かに指頭を以てこの脚頭に触るれば天地振動、草木号叫、女◇氏(じょくわし)未だこの足を断じ去って、五色の石を作らず。」             
一五日『病牀六尺』第一二六(尿)
一六日『病牀六尺』休載         
一七日『病牀六尺』第一二七 「芳菲山人より来信。(略)俳病の夢みるならんほとゝぎす拷問などに誰がかけたか」              
一八日 午前十一時、絶筆三句を記す。
「糸瓜咲て 痰のつまりし佛かな」    
「痰一斗 へちまの水も間に合わず」
「をととひのへちまの水も取らざりき」

「誰々が来ておいでるぞな」(最後の言葉)
(注)弔問(陸羯南、碧梧桐、虚子、秀真、鼠骨、鳥堂、拓川夫人、鷹見夫人、碧梧桐姉静、陸まき)
一九日 未明(午前一時)逝去。 

規の達観と安心―絶筆三句について

 絶筆三句については多くの俳人、研究者が記述しているが、敢えて「安心」の視座から書き加えておきたい。
 まず最初に中央に「糸瓜咲て 痰のつまりし佛かな」と書き、次いで右に「痰一斗 へちまの水も間に合わず」、最後に左に「をととひのへちまの水もとらざりき」と書き留めた。
 「痰一斗」の句は、二、三年前に主治医宮本仲医師に子規が贈った句である。「私の観た子規」によれば、「丁度その八月の事、子規が悪かった時、私が直ぐに行けなかった。そこで私が行かないものだから、西瓜の水をいくら呑んでもさっぱり効果がないと云ふ意を含めて詠んだもの」で、子規は快癒を信じた「自力の句」といえる。
 「をととひの」の句では、旧暦八月十五日は子規庵近くの上野浄名院の「糸瓜封じ」のお祭りで糸瓜を供えて咒をしてもらうにだが、その水も取らなかった。「自力から他力に向かう句」といえる。
「糸瓜咲て」の句で自らを「痰のつまりし佛」と表現し、「糸瓜咲て」へちま仏へ成仏する「安心」を得た「他力の句」を詠んだ。
数年前に子規は「糸瓜サヘ仏ニナルゾ後レルナ」の句を残している。「絶対他力の句」といえよう。(「仰臥漫録」)
「絶筆三句」の配列から「来迎三尊」(阿弥陀仏 観音菩薩 勢至菩薩)を暗示すると指摘する研究もある。
子規の死は「天命」はおろか「不惑」の年にも達していないので、生死への執着は当然持ち続けたであろうが、「絶筆三句」で安心の境地に達していたと信じたい。

おわりに

 一遍は「一代聖教みな尽きて南無阿弥陀仏と成り果てぬ」として後継者を拒否した一方、子規は虚子を後継者に指名したが拒否された。死後、二人の思いはどのように継承されていったか。
一遍の死後、二祖他阿真教上人により遊行が持続され、各地に「道場」が設けられた。更に四代目の呑海上人により「遊行派」と呼ばれる今日の「時宗」の宗教形態に組織かされた。一遍生誕地である伊予道後奥谷の「宝厳寺」は一遍の弟である「仙阿(伊豆坊)」により「奥谷道場」が開設されたが仙阿の弟子「珍一房」の死後遊行派に吸収された。このことを一遍は知る由もないのだが・・・
一方、子規の死後、紆余曲折はあったが、俳句、短歌ともに結社を中心に今日の隆盛を得ている。
「へちま仏」の守り人の句を配しておきたい。
「五十年糸瓜守りて愚に徹す」     寒川 鼠骨
「吾が生は糸瓜の蔓のゆく処」     柳原 極堂
「春風や闘志いだきて丘に立つ」(俳壇復帰)                      
「闘志尚存して春の風を見る」(喜寿)  高浜 虚子

おわりのおわりに、松山子規会(副会長)、一遍会(代表)の大先輩である越智通敏氏の子規と一遍への想いを記しておきたい。(『子規会誌』一一号
「糸瓜も仏になった。子規も仏になった。糸瓜も子規も仏になった。子規は『糸瓜仏』という仏になった。」

「糸瓜サヘ仏ニナルゾ後レルナ」      
「成仏ヤ夕顔の顔ヘチマの屁」       
「糸瓜咲て 痰のつまりし佛かな」   
「六道輪廻の間には  
ともなふ人もなかりけり 
   独りむまれて独り死す 
生死の道こそかなしけれ
・・・・・・・・・・・・
出る息入る息をかぎりにて
南無阿弥陀仏ともうすべし」
(一遍 『百利口語』)

主要参考図書
橘俊道・梅谷繁樹『一遍全集』(春秋社1989) 
『子規全集』(講談社)
和田繁樹『子規の素顔』(愛媛県文化振興財団1990)
和田克司編『子規の一生』(増進社2003)
『松山 子規事典』(松山子規会2018)                  
『子規会誌』越智通敏論文
(七・一〇・一一・一六・三八・四〇・六〇号)
  『子規会誌』和田克志論文(七六号)
『子規会誌』拙稿(一四九、一五〇号)
(注)一遍の和歌(法歌)についてはブログ「熟田津今昔]第六十二章「一遍歌集 全百首」参照されたい。http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/nigitazu/nigitazu62.html

【講演 レジュメ】

今回の講話について大前提をご説明しておきたい。テーマは「生死の執着と安心 〜一遍と子規と〜 」であるが、仏教的な用語では、生死は「しょうじ」、執着は「しゅうじゃく」、安心は「あんじん」である。

生死(しょうじ)
@ 誕生と死
A 生まれ変わり死に変わり(輪廻)

執着(しゅうじゃく)
事物に固執し、とらわれる。執著。

安心(あんじん)・・・安心立命 安心決定
信仰や実践により到達する心のやすらぎ
 聖道門・・・自己への精神集中(自力本願)
 浄土門・・・阿弥陀仏への寄与(他力本願)


1 はじめに  四苦と八苦
「苦」とは 自分の思い通りにならないこと
「四苦」とは、@生・A老・B病・C死
「八苦」とは、
@生・A老・B病・C死
D愛別離苦・E怨憎会苦・F求不得苦・G五陰(オン)盛苦 
(注)五陰(色・受・想・行・識)から生ずる心身の苦しみ。五蘊

仏説・摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智・亦無得。以無所得故、菩提薩?、依般若波羅蜜多故、心無?礙、無?礙故、無有恐怖、遠離一切[15]顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。般若心経

一言で言えば「生者必滅 会者定離」であり、「生者必滅 会者定離」の喜怒哀楽を歌い上げたものが中世の「平家物語」「太平記」の世界であり、和歌であり、また俳句ではなかろうか。

一遍は健康体で晩年まで「病知らず」で、子規は三五歳で死去したので「老いの体験」はない。そこで、今回は、一遍と子規の「生死の執着と安心」に絞って話を進める。

これからの論述に当たって二つの尺度を用いたい。
一つは古代インドで書かれた『マヌ法典』の人生を四区分(学生期・家住期・林住期・遊行期)して理想的な生き方を提示した「四住期」と、
他の一つは「論語」(為政第二)にある「吾十有五而志乎 学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩」である。
併せて、一遍も子規も出自は支配層・エリートである「武士」出身であり、そのエートスは「常在戦場 常時死身 臨終安穏」であった。戦前の「教育勅語」に反映されており@「タテ社会(忠孝・長幼序列)」と「イエ(家督相続)」に象徴される。(笠谷和比古『士の思想』 岩波)

一遍の陸奥遊行は、祖父通信、伯父通政、叔父通末の墓参旅でもあった。子規二八歳の漢詩「正岡行」では「タダ期ス 青史ニ長ク 姓ノ正岡ヲ記サンコトヲ」と立志を吐露している。

U 一遍の生死への執着と安心

『一遍聖絵』の冒頭部分を読んで、一遍の生い立ちに触れてみたい。

 一遍聖絵 第一 第一段

 一遍ひじりは、族姓は越智氏、河野四郎通信が孫、同七郎通広(出家して如仏と号す)が子なり。延応元年(1239)亥己予州に誕生。十歳にして悲母にをくれて、始て無常の理をさとり給ぬ。つゐに父の命をうけ、出家をとげて、法名は隋縁と申けるが、建長三年(1251)の春十三歳にて、僧善入とあひ具して鎮西に移行し、大宰府の聖達(しょうだつ)上人の禅室にのぞみ給う。
 上人学問のためならば、浄土の章疏文字よみをしてきたるべきよし、示し給によりて、ひとり出て肥前国清水の華台上人の御もとにまうで給き。
 上人あひ見て、「いづれの処の人、なにのゆへにきたれるぞ」と問給に、事のおもむきくはしくこたへ申されければ、□処の上人、「さては昔の同朋の弟子にこそ、往事おまだわすれず、旧好いとむつまじ、さらばこの処に居住あるべし」とて、名字を問給に、隋縁と申よし答申給に、「隋縁雑善恐難生(隋縁の雑善は恐らく生じ難し)」といふ文あり、しかるべからず」とて、智真とあらため給き。
 さて彼の門下につかへて、一両年研精修学し給ふ。天性聡明にして、幼敏ともがらにすぎたり。上人器骨をかゞみ、意気を察して、「法機のものに侍り、はやく浄教の秘蹟をさづけられるべし」とて、十六歳の春、又聖達上人の御もとに、をくりつかはされ給けり。

伊予の豪族河野氏の一族である。承久の乱(1221年)で、一族は後鳥羽上皇方と鎌倉幕府方に別れて抗争した。上皇方は敗北し、通信以下伊予系河野家は所領を没収され、北条系河野家が総領家として以後伊予国の統治者となる。庶家の得能河野家と別府河野家は幕府方に加担したので所領が安堵された。別府河野家通広の次男として一遍智真(松寿丸)1239年誕生する。父・通広(如仏)は仏門にあり、母の死後を契機に、一遍は伊予・得智山継教寺(師は縁教上人)に入る。母は、北条方の武将大江季光の娘で,季光は毛利家の祖に当る。

出自 一遍の系譜
〇武家の子 家系 仏門 幕府方(武家方) 次男 母(大江[毛利]季光娘)
○一遍の生涯(1239〜1289)文永の役(1274)弘安の役(1281)

通信――通広――通真・・・・・・・・・・・別府河野家継承(庶家)
        ――通尚 一遍(智真坊)・・・時宗開祖
        ――通定 聖戒(伊予坊)・・・『一遍聖絵』編者
        ――不詳 仙阿(伊豆坊)・・・奥谷派宝厳寺開基
――通俊――通秀・・・・・・・・・ 得能河野家継承(庶家)
――通秀
――通末
――通久――通継――通有・・・・・・・・・・・・鎌倉系・・・河野家継承(総領家)

学生期 (学生期―家住期―林住期―遊行期)
○ エリート進学・留学
伊予・得智山継教寺(縁教) 筑紫・大宰府原山寺(聖達)・肥前・清水庵室(華台) 
天台(顕教・密教)・浄土教・真言密教(山岳宗教)・法華経・曹洞禅
(注)平安時代から、一族の誰かが出家すると、その一族も極楽浄土に成仏できると信じられるようになった。
「まことに一子出家すれば七世の恩所、得脱することはりなれば、亡魂さだめて慨土望郷のむかしの夢をあらためて、華池宝閣の常楽にうつり給ぬらむと、ことにたのもしくこそおぼえ侍れ。(第五・第三段)」

一二六三年、父(通広)の死により伊予に帰国、還俗して領地を相続し家庭を持つが、一族の相克が起きる。刃傷沙汰に発展し、善光寺・窪寺閑室・菅生岩屋で修行し、再出家を選択する。

家住期
  (学生期―家住期―林住期―遊行期)

○ 兄(通真)の死 父(通広)の帰寂 領地相続 結婚 子供 親族間の相克(領地、妻妾、刃傷)
→挫折 → 発心(安心)

「夫真俗二諦は相依の法、邪正一如は実業のことはりなれども、「在家にして精進ならんよりは、山林にしてねぶらむにはしかじ」と仏もをしへ給へり。又「聖としか(鹿)とは、里にひさしくありては難にあふ」といへる(第一 第二段)

発心の契機は「輪鼓」(りゅうご)の悟り
 輪鼓(独楽)は「動くものか」「不動のものか」

「そのゝち(父通広帰寂)、或は真門をひらきて勤行をいたし、或は俗塵にまじはりて恩愛をかへりみ、童子にたはぶれて、輪鼓をまはすあそびなどもし給き。

ある時、此輪鼓地におちてまはりやみぬ。これを思惟するに、「まはせばまはる、まはさゞればまはず、われらが輪廻も又かくのごとし。三業の造作によりて六道の輪廻たゆる事なし。自業もしとゞまらば、何をもてか流転せむ。こゝにはじめて、心にあたて生死のことはりを思ほしり、仏法のむねをえたりき」とかたり給き。

彼輪鼓の時、夢に見給へる□
「世をわたりそめて高ねのそらの雲 たゆるはもとのこゝろなりけり」(第一 第二段)

林住期  (学生期―家住期―林住期―遊行期)

○ 善光寺(二河白道図) 
○ 窪寺閑室(己心領解)「十劫正覚衆生界 一念往生弥陀国 十一不二証無生 国界平等座大会」
○ 菅生岩屋(捨て聖)
 
○ 空也(「捨ててこそ」) 〇教信(念仏・捨身) 〇性空(「性空即是涅槃聖 六字宝号無生故))

「捨て聖」として十六年間念仏賦算の遊行を続ける。賦算は二五万一七二四人に及ぶ。
(全人口の約5%  弘安年間(1278−1287)人口4,994,828(男)1,994,828人(女)2,994,830
 『類聚名物考』(全人口の5%)

遊行期 
 (学生期―家住期―林住期―遊行期再出家 )

賦算 二五万一七二四人(十六年間)
踊り念仏(念仏踊り→盆踊り)
遊行(非定住) 
念仏(南無阿弥陀仏)

往生 (延応元年1239〜正応二年1289八月二三日辰の始 午前七時頃)
10日 所持の経文、譲渡または焼却
12日 時衆順番に看病。相阿・弥阿・一阿・聖戒は脇座。他阿は病臥。
17日 無理に往生すべきか否か迷うが、聖戒の勧めで「定命」に任せる。
18日 眼中の赤い筋が消えたら臨終と告知。
21日  西宮の祭礼。西宮神主「十念」、播磨・淡河殿夫人「念仏札」251,724人目
20日〜22日 水垢離
23日 晨朝礼賛の懺悔の「帰三宝」が唱えられてる中、禅定に入るが如く往生。
(注)勢至菩薩(阿弥陀三尊)の縁日。
「阿弥陀とはまよひさとりのみちたえて たゞ名にかよふいき仏なり」
「南無阿弥陀仏ほとけのみなのいづるいき いらばはちすのみとぞなるべき」
一遍の辞世の歌(「一遍百首」より)

045おもふことみなつきはてぬうしとみし よをばさながら秋のはつかぜ(第十一、@)
(想うことみな尽き果てぬ 憂しと見し世をば さながら秋の初風)

046きへやすきいのちはみづのあはぢしま 山のはなから月ぞさびしき(第十一、@)
(消えやすき命は水の淡(泡)路島 山の端から月ぞ寂しき)

047あるじなきみだのみなにぞむまれける となへすてたるあとの一声(第十一、@)
(主なき弥陀の御名にぞ生まれける 唱へ捨てたる後の一声)

048名にかなふこゝろはにしにうつせみの もぬけはてたる声ぞすずしき(第十一、@)
(名にかなふ心は 西の空蝉のもぬけ果てたる 声ぞ涼しき)

049よにいづることもまれなる月景に かゝりやすらむみねのうきくも(第十一、A)
(世に出づることも稀なる月影に かかりやすたむ峰の浮雲)

050旅衣木のねかやのねいづくにか 身のすてられぬところあるべき(第十一、B)
(旅衣 木の根萱の根何処にか 身の捨てられぬ処あるべき)

051阿弥陀とはまよひさとりのみちたへて たゞ名のかよふいき仏なり(第十二、@)
(阿弥陀とは 迷ひ悟りの道たえて ただ名(無量寿仏)の通ふ生き仏なり)

052南無阿弥陀ほとけのみなのいづるいき いらばゝちすのみとぞなるべき(第十二、@)
(南無阿弥陀 佛の御名の出づる息いらば 蓮の実とぞなるべき)

【参考】 『一遍聖絵』に見る一遍  スライド上映  全十二巻 48段 48図(略)
(注)全十二巻 48段 48図

十二光仏(「大無量寿経」)阿弥陀仏の光明を12の功徳?(くどく)?に分けてたたえる呼び名。無量光・無辺光・無碍光?(むげこう)?・無対光・?王光?(えんのうこう)?・清浄光?(しょうじょうこう)?・歓喜光?(かんぎこう)?・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光?(ちょうにちがっこう)?。十二光徳 十二光箱(十二道具)十二因縁

V 子規の生死への執着と安心

1)正岡家の遠祖は風早郡の豪族で河野家の家臣である。江戸時代には松山藩の郡手代として勤め士分に取り上げられる。
1867年、徳川幕府が瓦解した明治維新に馬廻加番隼太の長男として子規は誕生する。武士(支配層・エリート)の遺伝子は「常在戦場 常時死身 臨終安穏」。
2)当時不治の病とされる結核に罹り、人生計画(哲学者、外交官等)が大きく狂う。
3)限られた人生の中で俳句革新に乗り出し、「安心」の境地に達し、和歌、近代詩、ジャーナリスト等、多彩な分野に挑戦する。

出 自 子規の系譜

父方  松山藩の武士の子 「常在戦場 常時死身 臨終安穏」
  母方  松山藩の儒者の孫 「十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命」
 
家系 次男 父(佐伯隼太(常尚)養子  挫折  大酒家(毎日一升位))               
      母(八重 儒者大原観山(有恒、武右衛門)  長女 後妻)
       *長男(数馬 早世)  先妻(倉根半蔵娘 十石)
 *隼太は常武の長女(村)が藩士佐伯政景に嫁して生んだ次男(長男は政房) 。
  常武と隼太は血統の上では「祖父と孫」の関係にある。
初代 団七(山手代・郡手代)―二代 団七(郡手代)―三代 不詳―四代 不詳―五代 一甫(茶坊主・茶坊主頭)―六代 常武(徒歩目付)―七代 隼太(大小姓格・馬廻加番)― 子規 
先祖・正岡氏は風早郡(現・松山市)八反地に住む豪族。河野氏家臣。越智郡竜岡幸門城主、河野三十二将の一.
・「武士と俳句」(「獺祭書屋俳話」) 武士:高尚優美 素町人・土百姓:月並調(金子兜太)

学生期

松山藩士族としてエリートコースを進学・遊学する。勝山学校(明治八年〜)―松山中学(明治十三年)―須田学舎(明治十六年)―東京大学予備門(明治十七年)―東京帝国大学文科大学(明治二三年)。在学中に、当時不治の病とされる結核に罹り、人生計画(哲学者、外交官等)が大きく狂う。明治二五年帝国大学退学。生涯の友・夏目金之助(漱石)を知る。  
 
家住期
明治二五年十一月、正岡家東京移転(母八重、妹律)。十二月 新聞「日本」社員。限られた人生の中で俳句革新に乗り出し、「安心」の境地に達し、和歌、近代詩、ジャーナリスト等、多彩な分野に挑戦する。
林住期 遊行期
 明治二八年以降は病臥の体となり根岸「子規庵での生活が中心となる。林住期・遊行期に該する時期はないが、病臥期の精神生活では、林住期・遊行期の精神的遍歴を経験していると云えるかもしれない。

子規 生死の執着  哲学的苦悩
 
○ 「生が帰か死が帰か夢の世の中の 夢見て悩む我身なりけり」
(明治一七年九月 竹村鍛宛  大学予備門)
○「悟りといふことハ仏教の専有物でハないが・・・悟りは一つであるが、その方法は二つある。自力と他力、聖通門と浄土門、その極端にあるものとして禅宗と真宗
○座禅観法と念仏
阿弥陀さまと一処になって始めて絶対の境地に達して悟りが開ける」
「悟りとハ悟らぬさきの悟りなり 悟りてみれハ何もかもなし」 一休禅師
(明治二三年四月 常盤会寄宿舎茶話会)
「生が帰か死が帰か夢の世の中の 夢見て悩む我身なりけり」

子規 生死の執着  大喀血(而立)

○「身の上や御籤を引けば秋の風」 
(明治二八年九月 石手寺 「二十四番凶 病事は長引ん命にはさはりなし」 )
○「行く秋や我に神なし仏なし」
(明治二十八年年一〇月 小栗神社)
須磨で病気静養中、『日蓮記』を読み、日蓮に傾倒する。(自力信仰)
○「平和なる天下に生れ(略)能く平地波乱的の大事業を成就するあらば、其人が徹頭徹尾時勢を造出し技量を驚かざるを得ず。(略)余法華宗の開祖日蓮に於て之れを見る。(略)野心は須らく大なるべきなり。」
(明治二八年八〜一〇月『養痾日記』(「日蓮」)

子規 生死の執着  禅的悟り

○「余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。(「病床六尺」明治三五年六月二日)
○「をかしければ笑ふ。悲しければ泣く。併し痛の烈しい時は仕様がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、又は黙ってこらへて居るかする。其中で黙ってこらへて居るのが一番苦しい。盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛が減ずる。(「墨汁一滴」明治三四年四月一九日)
○「今迄悟りと思ふて居たことが、悟りではなかったといふことを知ったゞけが寧ろ悟りに近づいた方かも知れん。さう思ふて見ると悟りと気取りと感違へして居る人が世の中にも沢山ある。」(「病牀苦語」明治三五年口述)
「ありのまま」が子規の到達した一つの悟りではないか。

子規の往生(慶應三年1867 10月14日〜明治三九年1902 9月19日)

11日「病床六尺」124
12日「病床六尺」125
13日「病床六尺」126 宮本医師 碧・鼠骨・佐千夫・秀真・節・虚子(泊)
14日            虚子                  
15日「病床六尺」127 碧梧桐(看護)
16日          虚子・左千夫(看護)
17日               
18日へちま三句     柳医師 碧・羯南・虚子(泊) 宮本医師
               「誰々が来ておいでるぞな」(最後の言葉)
19日未明(午前一時)没  虚子が碧梧桐、鼠骨連絡   通夜  
20日通夜
21日午前9時出棺 会葬150余名 大龍寺埋葬 「正岡常規墓」

子規の往生(続)

死の床で書かれた『病床六尺』(明治三五年)から子規の「安心」に迫りたい。
○支那や朝鮮では今でも拷問をするさうだが、自分はきのふ以来昼夜の別なく、五体すきなしといふ拷問を受けた。誠に話にならぬ苦しさである。「NO123」
○人間の苦痛は余程極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度に迄想像した様な苦痛が自分の此身の上に来るとは一寸想像せられぬ事である。「NO124」
○「足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大磐石の如し。僅かに指頭を以てこの脚頭に触るれば天地振動、草木号叫、女◇氏(じょくわし)未だこの足を断じ去って、五色の石を作らず。「NO125」
○芳菲山人より来信。(略)俳病の夢みるならんほとゝぎす拷問などに誰がかけたか「NO127」

W おわりに
      辞世の歌・偈頌(げじゅ) ― 生死の未練と達観 ―

「願わくば花の下にて春死なん その望月の如月の頃」

西行法師1118(元永元年)〜1190(建久元年)
  西行の入寂:如月望月 陰暦二月十六日 「釈迦涅槃の日」
  『山家集』<治承・寿永の乱>1180〜1185 (入寂10年前)

一遍聖 1239(延応元年)〜1289(正応二年)
  一遍の生誕:陰暦二月十六日 「釈迦涅槃の日」
  一遍の入寂:陰暦八月二十三日「勢至菩薩縁日」 (秋彼岸)

一遍の達観と安心

001「世をわたりそめて高ねのそらの雲 たゆるはもとのこゝろなりけり」
*弘長三年(1263)  伊予・別府宅

003「とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶにむまれこそすれ」
*建治二年(1276) 大隅正八幡宮

015「身をすつるすつる心をすてつれば おもひなき世のすみぞめの袖」
*弘安三年(1280) 奥州江刺祖父通信墳墓  *窪寺(宝厳寺)歌碑

036「極楽にまいらむとおもふこゝろにて 南無阿弥陀仏といふぞ三心
*弘安九年(1286)冬 石清水八幡宮 三心=至誠心・深心・廻向発願心

050「旅衣木の根かやの根いづくにか 身の捨てられぬ処あるべき」
*天応二年(1289)七月  淡路島        *宝厳寺歌碑

子規の達観と安心


絶筆三句については多くの俳人、研究者が記述しているが、敢えて「安心」の視座から書き加えておきたい。
 まず最初に中央に「糸瓜咲て 痰のつまりし佛かな」と書き、次いで右に「痰一斗 へちまの水も間に合わず」、最後に左に「をととひのへちまの水もとらざりき」と書き留めた。
 「痰一斗」の句は、二、三年前に主治医宮本仲医師に子規が贈った句である。「私の観た子規」によれば、「丁度その八月の事、子規が悪かった時、私が直ぐに行けなかった。そこで私が行かないものだから、西瓜の水をいくら呑んでもさっぱり効果がないと云ふ意を含めて詠んだもの」で、子規は快癒を信じた「自力の句」といえる。
 「をととひの」の句では、旧暦八月十五日は子規庵近くの上野浄名院の「糸瓜封じ」のお祭りで糸瓜を供えて咒をしてもらうにだが、その水も取らなかった。「自力から他力に向かう句」といえる。
「糸瓜咲て」の句で自らを「痰のつまりし佛」と表現し、「糸瓜咲て」へちま仏へ成仏する「安心」を得た「他力の句」を詠んだ。
数年前に子規は「糸瓜サヘ仏ニナルゾ後レルナ」の句を残している。「絶対他力の句」といえよう。(「仰臥漫録」)
「絶筆三句」の配列から「来迎三尊」(阿弥陀仏 観音菩薩 勢至菩薩)を暗示すると指摘する研究もある。
子規の死は「天命」はおろか「不惑」の年にも達していないので、生死への執着は当然持ち続けたであろうが、「絶筆三句」で安心の境地に達していたと信じたい。

「糸瓜サヘ仏ニナルゾ後レルナ」(「仰臥漫録」) (他力句)
絶筆三句
 @「糸瓜咲て 痰のつまりし佛かな」   ・・・成仏(他力句)
 A「痰一斗 へちまの水も間に合わず」  ・・・生への執着(自力句)
 B「をととひのへちまの水も取らざりき」 ・・・死の覚悟(自力句→他力句)
糸瓜封じ 
  「をととひのへちまの水も取らざりき」        子規」
  「子規逝くや十七日の月明に」            虚子」

【 糸瓜封じ】
  上野浄名院(律宗)糸瓜を供えて咒をしてもらう。ぜんそく封じ。咳の薬。
  旧暦八月十五日 
【胡瓜封じ】 今治 高野山世田山栴檀寺 通称「世田薬師」  
        「土用の丑の日」(夏越しの儀式)

おわりのおわりに


一遍は後継者を拒否し、子規は虚子を後継者に指名したが拒否された。死後、二人の思いはどのように継承されていったか。
一遍の死後、二祖他阿上人により遊行が持続され、各地に「道場」が設けられた。更に四代目の呑海上人により「遊行派」と呼ばれる今日の「時宗」の宗教形態に組織かされた。
一遍生誕地である伊予道後奥谷の「宝厳寺」は一遍の弟である「仙阿(伊豆坊)」により「奥谷道場」が開設されたが仙阿の弟子「珍一房」の死後遊行派に吸収された。このことを一遍は知る由もないのだが・・・
一方、子規の死後、紆余曲折はあったが、俳句、短歌ともに結社を中心に今日の隆盛を得ている。最後に「へちま仏」の守り人の句を配しておきたい。

「南無阿弥陀仏」と「南無東瓜(糸瓜)仏」
「一代聖教みな尽きて南無阿弥陀仏と成り果てぬ   一遍」 

「糸瓜サヘ仏ニナルゾ後レルナ」      子規」
「成仏ヤ夕顔の顔ヘチマの屁」       子規」
「糸瓜咲て 痰のつまりし佛かな」     子規」 

「糸瓜も仏になった。子規も仏になった。糸瓜も子規も仏になった。子規は「糸瓜仏」という仏になった。」越智通敏 『子規会誌』11号(昭和56年10月号)

「南無糸瓜仏」の守り人


「五十年糸瓜守りて愚に徹す」
                      寒川 鼠骨(1875〜1954)
「吾が生は糸瓜の蔓のゆく処」
                      柳原 極堂(1867〜1957)
「春風や闘志いだきて丘に立つ(大正二年 俳壇復帰)
                        
「闘志尚存して春の風を見る (喜寿)    高浜 虚子(1874〜1959)

「古人の跡をもとめず、古人 の求めたる所をもとめよ」
   松尾芭蕉(『許六離別の詞』(柴門の辞) )

「草木国土悉皆成仏」 「山川草木悉皆仏性」(仏典)

「花鳥諷詠」「客観写生」(虚子提唱 伝統俳句)

「俳諧に禅あらば禅に俳諧あるべし」(子規「ホトトギス」俳諧無門関)

生死の執着と安心

 「六道(ろくどう)輪廻(りんね)の間には ともなふ人もなかりけり
  独りむまれて独り死す 生死(しょうじ)の道こそかなしけれ」(『百利口語』)

一遍 と 子規 と ・・・「私」・・・
   「限りある人生」(色)なればこそ「限りなき人生」(空)を求める。
                     ご清聴ありがとうございました  合掌